清御隷書体

この書体の目標は「中国の清王朝の乾隆帝に愛された隷書体が現代に蘇るリニューアルプロジェクト」です。

中国の清代盛世期における宮廷工芸の傑作であり「磁胎畫琺瑯」(琺瑯彩)と「磁胎洋彩」(洋彩)という磁器に、乾隆帝(在位一七三五年-一七九五年)の御製詩が様々の書写字様を通して後世に伝えられています。これらの書写字様は芸術的なレベルの高さで知られておりながら、更に各々の書体を変化させた様々な書体が乾隆帝の芸術の多様性への到達という願望のために捧げられました。

「清御隷書体」はその各隷書様式の中の稀な例を築き上げ、現代的な感性を取り入れたモダンな隸書体です。「清御隷書体」の特徴とは、筆力は柔らかなで波磔(横画のうねり)は力強く、穏やかな書風の中で華やかな筆意を感じられます。端正かつ柔軟な字画エレメントの中で、シャープな左右ハライが快適なリズムを生み出せます。「清御隷書体」は伝統的な筆文字には見られなかった活字的なレターバランスを意識し、隸書体の扁平さを維持し、バランス良い扁平の四角い枠の中に納まるように特に工夫を凝らしました。例えば、筆法・結法・字画構成を整え、均質なエレメントを規範化し、「清御隸書体」の可読性、均衡美、安定性、裝飾性の表現効果において秀れています。ひらがなとカタカナも、漢字の筆意を基礎としながら、自然に融和させました。その結果、「清御隷書体」は格調高い伝統書体を現代にふさわしく、縦組でも横組でも整然として泛用性を極大化して、従来の隷書体のフォントとはひと味違う新しい感覚のある美しい隷書体です。

清代盛世期のみならず、明治時代から隸書体が立派に息づいていた近代日本の夜明を飾りました。隷書体はもともと実用文字として生み出され、新聞、書籍、雑誌、版画、看板などの題字のみならず、当時の序文の本文や名碑に用いられていました。明治時代の公的書類や出版品に使用される書体として用いられてきました。例えば、大蔵省印刷局を通して国家の正式な書体として使用され、銀行券や国・公債などに、今日でも使われ続けています。福沢諭吉の名著の『西洋事情』の中に隸書体が立派に用いられてありました。今でも隸書は日常的にも馴染まれ、親しまれている書体です。隷書体は新聞、書籍、雑誌、看板、宣伝、ポスター、年賀状、その他伝統保持の意識があるあらゆる書き物の中に見受けられる人気のある書体です。また上記の通り、「清御隷書体」は現代のニーズに合わせながら、古来の隷書の枠にとらわれない幅広い用途に使えます。

十八世紀に、「清御隷書体」のような書体は、北京の故宮紫禁城の中心であった乾清宮に収蔵され、皇帝の賞玩に供されていた国宝の中でのみ見ることができました。今日も尚、その国宝は北京と台北とボストンの博物館に眠っています。「清御隷書体」を通して、世界に貴重な文化遺産を再発見させられたら、幸いと存じます。

制作するように私を大きく動かしたものの一つは失伝した清の時代の隷書体を現代に復元したいという使命感でありました。次代に愛される書体を作る事は文字職人の魂であります。究極の隷書体を通して、世界に貴重な文化遺産を再発見させられたら、幸いと存じます。

清御隸書體

本書體設計目的為重現清朝乾隆盛世宮廷翰墨隷書體。

清宮琺瑯彩瓷為清朝盛世期之宮廷藝術傑作。乾隆皇帝命詞臣以楷、草、行、隸等書體,將御製詩書於其上,供其欣賞並流傳後世。然而,時至今日,這些稀世珍寶長眠於世界少數博物館,鮮為人知,遑論其書法藝術。

綜觀清宮琺瑯彩瓷之隸書,整齊端正,但風格上各有所異。「清御隸書體」集其精髓,並融入了現代感性美。其書體特徴為圓潤筆力中帶有強勁波磔;柔軟筆畫中帶有蒼勁撇捺。「清御隸書體」為毛筆風格字體,其筆法字劃經系統性規範後,其可讀性、均衡美、以及裝飾性,皆得以極大化。「清御隸書體」兼顧活字排版意識,既維持了隸書的扁平特性,亦將其整齊收納於大小一致的字面框,無論是竪排還是橫排,其泛用性都得以最大化。其日文假名部分,也融入了上述漢字的筆意特性,以確保漢字與假名之協調統一。

「清御隸書體」結合了清代宮廷藝術美學與現代設計意識,它不僅為歷史悠久的隸書體賦予了清朝盛世的時代感,更注入了現代詮釋後的新氣象,是獨具一格的隸書字體。

字体名:清御隷書体
読み方:しんぎょれいしょたい
語言:日本語、正體中文
文字数:日本語スタンダード(Std)版:Adobe-Japan 1-3準拠 9,498文字。正體中文:Adobe-Japan 1-3準拠+正體中文常用字約300字。
その他:畳字
字体名:清御隷書体
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語言:日本語、正體中文
文字数:日本語スタンダード(Std)版:Adobe-Japan 1-3準拠 9,498文字。正體中文:Adobe-Japan 1-3準拠+正體中文常用字約300字。
その他:畳字
Japanese 日文 日本語
Traditional Chinese 正體中文 正體中文
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歴史上「万園の園」と賞賛された円明園は、乾隆時代に規模が拡大され、全盛期に入りました。 乾隆12年(1747年)、乾隆帝はヨーロッパ宮殿風西洋建築群の立ち上げを発意し、イタリアの宮廷画家ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧Giuseppe Castiglione)とフランスの宣教師ミシェル・ブノワ(蒋友仁Michel Benoist)に設計と監督、そして中国の職人に建造を命じました。この西洋建築群は初めて東西の宮殿建物を融合させたものとなり、乾隆帝はこの創造的試みに大きな熱情を注ぎ、中国と西洋の建造物が肩を並べ、共に輝くことを期待しました。

西洋建築群のひとつ、「方外観」は乾隆24年(1759年)に完成し、もともとは「新建水法殿三间楼」と呼ばれていました。本体は2階建てのバロック式の西洋建築で、両側のアーク型階段には豪華な浮き彫りの手すりがあり、屋根は中国の宮殿の中でも最高規格の「重簷廡」仕様で、青と緑の瑠璃瓦で覆われています。2階の「券窗」(アーク型窓)はヨーロッパ風デザインで建設され、中国風の青、紫、黄色の瑠璃を使用しています。方外觀は機能上モスクであり、乾隆帝がイスラム教徒のウイグル族容妃の為に建てたものであり、礼拝を行う場所でありました。

この復元図は、円明園が1860年英仏連合軍に破壊された後に撮った写真と現地訪問に基づいて作成されています。ドイツ人エレンスト・オアマー(Ernst Ohlmer)とイギリス人チャールズ・フレデリック・ムーア(Charles Frederick Moore)が撮影した写真から見られるように、1870年代方外観の外観は大きく損なわれていませんでした。屋根は大抵無傷で、両側のアーク型階段と手すり、前方周囲の石の手すり、そして正面の石造3連アーチ橋の手すりもほぼ完璧で、円明園西洋建物の中でも最もよく保たれていた建物のひとつでありました。しかし、百年の木と石の窃盗や土壌浸食など絶え間ない破壊を経て、今日の廃墟に至りました。

数少ない古い写真に見られるように、乾隆51年(1786年)に刻まれた「円明園西洋楼銅版画」は実際の建物とやや異なるため、この復元図の方針は、主に19世紀末から20世紀初頭までの写真と現地訪問に頼り、銅版画は参考までとしました。方外観復元の間、著者はフランスにて上記のオアマーによって撮られた写真の複製品を入手しました。その特徴は、西洋建築群の瑠璃の色を表記していることであり、これは方外観復元の際に重要な参考資料となりました。(著者はオアマーの生涯を調べ、彼自身が色を記述したと推測しています)。

歷史上被譽為「萬園之園」的圓明園,於乾隆年間規模日趨宏大,進入了全盛時期。乾隆十二年(1747年),乾隆皇帝興起修建歐州宮殿式樣的西洋樓群之意,於是命意大利宮廷畫家郎世寧(Giuseppe Castiglione)、法國傳教士蔣友仁(Michel Benoist)主持設計監修,再由中國工匠建造。此西洋樓群首次將東西方宮廷建築進行融合,乾隆皇帝對此創造性嘗試抱有極大熱情,期許中西建築合壁生輝。

西洋樓群之一的「方外觀」於乾隆二十四年(1759年)建成,最初稱為「新建水法殿三間樓」。其主體為樓高兩層的後期巴洛克風格西洋建築,兩側的弧形樓梯有著華麗的透雕欄桿,其屋頂為中國殿頂樣式中最高規格的重簷廡殿頂,並以藍、綠色琉璃瓦覆蓋其上。二樓的券窗在採用歐式設計的同時,並使用中式的藍、紫、黃色琉璃進行構建。方外觀在功能上是一座清真寺,是乾隆皇帝給信仰伊斯蘭教的維吾爾族容妃做禮拜之處。

本復原圖是根據圓明園於1860年被英法聯軍毀壞後拍攝的老照片以及實地考察製作而成。從德國人奧爾末(Ernst Ohlmer) 與英國人摩爾(Charles Frederick Moore)所拍攝的照片可以看出,1870年代時期的方外觀其建築外觀受損並不嚴重,不但屋頂大致完好,兩側弧形樓梯以及欄桿,前方周圍的石刻欄桿,乃至正面的三孔橋石橋的欄桿都基本完整,為圓明園西洋樓中保持最完好的建築之一。然而隨後經過百年此起彼落的木劫、石劫、土蝕、等持續性的人為破壞,終變成今日殘景。

從僅存的老照片可以看出,乾隆五十一年(1786年)刻成的《圓明園西洋樓銅版畫》與實際建築多有出入。故本復原圖的製作方針為以19世紀末至20世紀初期照片與實地考察為主,銅版畫為輔。方外觀復原期間,筆者從法國取得了上述奧爾末所拍攝照片的複製件,其獨特之處為標明瞭西洋樓群的琉璃構建的顏色,為本方外觀復原的重要參考依據。(筆者查奧爾末生平,推斷顏色示意為奧爾末本人所添加。)

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奎楼書院は台南に位置しています。清朝雍正4年(1726年)に創立され、以前は「中社書院」と呼ばれ、台南の4大書院のひとつとして名をはせていました。乾隆期に3回修築され、嘉慶11年(1806年)に再建されました。嘉慶19年には3階建ての「魁星堂」として造りかえられ、壮大な建物となり、「奎光閣」とも呼ばれていました。道光13年(1833年)に「奎楼書院」と改名されました。当時地元の学者や読書人が集い、交流する場でありました。日本の植民地時代、台南都市部改正のため昭和元年(1926)に現在の場所に移り、2階建ての建物に再建されましたが、昔の姿を取り戻す事はありませんでした。その後第二次大戦中に空爆によって破壊され、民国44年(1955年)にまた修復されましたが、それも昔の外観には及びませんでした。この復元図は清朝の全盛期時の三階建て閣樓様式に基づいています。

清代奎楼書院の写真に欠け、植民地時代の数枚に止まるため、復元の際台湾の伝統建築専門家李乾朗先生の熱心な指導と助力を賜りました。ここに感謝申し上げます。

奎樓書院。位於台南。創於清雍正4年(1726年),原稱中社書院,台南四大書院之一。 乾隆時期重修三次,嘉慶十一年(1806)改建。嘉慶十九年重修為三層魁星堂,建築宏偉,又稱奎光閣;據《重修魁星閣碑記》記載「易堂為閣、矗立三層、遐矚高瞻、玲瓏八面。」道光十三年(1833)更名奎樓書院。期間為地方諸生士人交流集議之所。日治時期因台南市區改正,於昭和元年(1926)拆遷於現址,重建二層樓院,但非昔日風貌。第二次世界大戰時毀於空襲,於民國四十四年(1955)再次重建,仍非原貌。此復原圖為其清代全盛時期之三層閣樓樣式。

由於清代奎樓書院的照片付之闕如,僅有日治時代的數張,復原期間承蒙台灣傳統建築李乾朗老師的熱心指導與協助,特此感謝。

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台北府城は清朝光緒5年(1879)に着工し、8年(1882)に完成しました。麗正門(正門・南門)、宝成門(西門)、景福門(東門)、承恩門(北門),そして重熙門(小南門)の5つの閩南様式城門を立ち上げました。そのうち、西門と南門は外見が最も壮大で華麗なものでした。共に二重屋根の「重簷重脊歇山式」城門で、上下の屋根の間は中空タイルで飾られ、北門や東門の「単簷歇山式」城門よりも高い仕様となっていました。清朝時代西門は艋舺に通じる主要道路であり、道の両側に多くの店が立ち並びました。日本統治時代以降、西門一帯は台北一の繁華街となり、「西門町」と呼ばれています。明治38年(1905年)、総督府は「市区改正」のため台北府城の城壁を解体し、その期間に西門も撤去されました。

この復元図は西門の内側であり、同時に西門の前にあった独特な「惜字亭」も復元しています。

臺北府城起工於清光緒五年(1879)至八年(1882)竣工;共建閩南式城門五座,分別為麗正門(正門・南門)、寶成門(西門)、景福門(東門)、承恩門(北門),以及重熙門(小南門)。其中,西門與南門外型最為壯觀華麗,同為兩層屋檐的「重簷重脊歇山式」城門,上下屋簷間有空心花磚裝飾;其規格高於北門與東門的「單簷歇山式」城門。清代時期,西門為城內通往艋舺的要道,沿路商店林立;日治時代以降,西門一帶成為台北第一繁華地帶,稱為「西門町」。明治三十八年(1905),總督府進行「市區改正」拆除臺北城牆,期間西門也被拆除。

本復原圖為臺北府城西門的內側圖,並同時復原西門城樓前獨有的惜字亭。

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大蔵省印刷局朝陽閣は明治9年(1876)、当時の紙幣頭・得能良介は、紙幣を国産化する為に、東京の大手町に近代的設備と先進技術を備えた印刷工場を建設した。初めは紙幣寮製造場と呼びしものにして、煉瓦造二階建で、正面軒上には金色の菊花大紋章とともに、屋根に高さ約3メートルの石造りの巨大な鳳凰の石像が据えられた。鳳凰は、明治5(1872)年に発行した新紙幣にその図案が採用されたことから、国立印刷局のシンボルマークになっている。当時としては近代的なこの建物は、「朝陽閣」と呼ばれ、文明開化のシンボルとして錦絵にも描かれた。「朝陽閣」の名は、鳳凰に由来したもので、中国の最古の詩集『詩経』に、「鳳凰は鳴く、彼の高岡に。梧桐は生ず、彼の朝陽に」とある。朝陽閣は大正12(1923)年の関東大震災で倒壊してしいたが、鳳凰像は今も国立印刷局東京工場に保存されている。

大蔵省印刷局は明治初期以来、隸書体を近代の紙幣上の文字として使用してきた。大正時代には、「大蔵隷書」のデザインが進められた。大蔵隷書は大正14年(1925)に森沢信夫と石井茂吉によって開発され、昭和4年(1929)に実用化された写真植字(写植)は、これまでの活字の組版工程に画期的な進展をもたらした。戦後、隸書体は近代的紙幣の専用書体としての伝統保持の意識により、昭和26年(1951)以降、印章部分に使われる篆書以外、紙幣上は隷書に統一された。隷書体が保持された理由としては、実用文字として判読性に優れ、国家の威厳や信用性を表すのにふさわしいからである。DTP時代の到来に伴い、従来の写真植字機用文字盤の書体をデジタルデータ化することになった。平成11年(1999) にMacintosh に搭載可能な TrueType フォントが制作され、平成25年(2013) にMacintosh とWindowsのOpenType フォントへ変換された。最終的にフォント化した文字数は 4000 文字を超えた。今や、「大蔵隷書」は大蔵省印刷局が漢字文化圏諸国の中で唯一の公式書体として製作した隷書体である。明治時代以来隸書体を公式書体として使う期待を継続させ、そして時代と共に発展させ、このように隸書体の伝統の重みを伝え続け、継承と革新の模範といっても過言ではないだろう。

大蔵省印刷局が隸書体の継承のために全力を傾注したことに鑑みて、著者は明治時代の写真、錦絵、文字記録をたよりに、今や存在しない大蔵省印刷局朝陽閣を再現させた。

明治9年(1876年),大蔵省紙幣頭・得能良介為促進國產紙幣,在東京大手町設立了擁有現代化設備及當時最先進技術的紙幣工場。最初稱為「紙幣寮製造場」,正面刻有金色「菊花大紋章」,屋簷上有約三公尺高的巨大鳳凰石像,為雙層紅磚建築。明治5年(1872)以降發行的新紙幣,因印有鳳凰圖案而成為大蔵省印刷局的標誌。「朝陽閣」為文明開化的象徵。其名起源於中國《詩經》的「鳳凰鳴矣,於彼高岡。梧桐生矣,於彼朝陽。」 大正12年(1923),「朝陽閣」毀於關東大地震,然而其鳳凰石像至今保存在國立印刷局東京工廠內。

明治初期以來,大蔵省印刷局以隸書體作為近代紙幣上的專用文字。在大正期,更推動了『大蔵隷書』的設計。大蔵隷書於大正14年(1925)由森沢信夫與石井茂吉開發;昭和 4 年(1929),更廣泛應用於照片排版。戰後,隸書体作為繼承傳統的書體,依舊當作裝飾著現代紙幣的專用字體。昭和 26年(1951)以後,除部分使用篆書外,紙幣上的文字統一使用隷書體。隷書體作為實用性字體,易讀性高,書體風格凸顯國家尊嚴與公信力。隨著DTP時代的到來,傳統照片排版機文字盤繼而被數位化。平成 11年(1999),『大蔵隷書』的Macintosh 版 TrueType字體問世;平成 25 年(2013)推出Macintosh 與Windows版的OpenType 字體,其中漢字數超過4000字,但未設計平假名與片假名。

跨越時代,大蔵省印刷局透過『大蔵隷書』發揚明治時期以來,隸書體作為公式書體的傳統,使其與時俱進,為繼承與革新之間的典範。有鑑於此,作者透過明治時期的舊照、錦畫與文字紀錄,將已不復存在的大蔵省印刷局朝陽閣予以重現。

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